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読書/評論系二冊

図書館で借りた本。またレポートに関係ない本読んでる……。でも読みたいときに読みたい本を読むのは、ご縁だからしょうがないわけで……(純くんの声で)

大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)
 

読んで「おお」或いは「ほほお」、とおもったことを、いくつかメモしておきます。

内田:格差論や、ロストジェネレーション論の類をを読むと、僕はちょっと悲しくなってくるんですよ。書いてるのは三十代や四十代の人なんだけど、それだけ生きているということは、もう立派にこのシステムのインサイダーですよね。この世の中のシステムがうまく機能していないことについては、彼らにもすでに当事者責任があると思うんです。だから、そんな簡単に「こんな日本に誰がした」みたいな言い方はできないと思うんですよ。でも、彼らの議論はいつも「自分は純然たる被害者である」という不可疑の前提から出発している。自分たちの社会システムが不調であることに対しては、自分にはまったく責任がないと思っている。

わたしもついつい傍観者みたいな物言いをしてしまうことがあって、日本から抜け出したいわーとか、つい思ってしまいがちなわけですが、もう全然、そういう年齢でないのです。大人になるとは如何に……! まあ被害者だとはさすがにおもってないけど、自分がその一端を担っているという意識は、いまのところ持てていないなあ。うーん、というよりわたしは「所属している」という意識が低いのだとおもう。国民だとか都民だとか、そういう意識。なぜなんだろう。不思議だ。引っ越ししてばっかりだからかしら、と、いうのも安直だけれど、でも生まれたときからずーっと三十年とか同じ家に住んでる知人などは、やはり地元意識というものが強くあるので、要因のひとつではあるとおもう。生まれてから三十回近く引っ越ししているからなー。

内田:僕は、「知識と教養は違う」とよく学生に言うんです。図書館にある本は情報化された知識ですよね。教養というのは、いわば図書館全体の構成を知ること。教養というのは知についての知、あるいはおのれの無知についての知のことだと思います。
鷲田:コンテクストをつけていけるということね。
内田:図書館のマップがあれば、自分が読んだ本がどこにあり、読むべき本がどこにあるのかわかる。自分自身の知識がどれほどのもので、自分が知らないことがどういう広がりをもっているかを知ることができる。
鷲田:知的なスキルですね。
内田:知的探求を行っている自分自身の知のありようについて、上から鳥瞰できることが「教養がある」ということではないかと僕は思うんです。自分の置かれている文脈を見る。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか、なぜ知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けた瞬間に教養が起動するんだと思います。(略)「このことについてわからないのはなぜなのか」という問いをたてられた段階で、かなり知的な達成じゃないかと思うんですよ。

これは、大学に入ったことと、大学図書館でお仕事をさせてもらえるようになったことで、ものすごく腑に落ちるというか理解できるようになったとおもわれる話。いや、まだまだ全然教養ないですが……。でもここ二年半ですごく変わった。自分がなにを知らないのかが少しずつわかってきたし、それを知るための道順を考えられるようになった。わたしは脳内に知識をストックしていくのがほんとうに不得手なんだけれど、それでも少しずつ教養が身についてきているとおもうし、それは愉しくてうれしいことなので、大学に入ってよかったと心からおもっております。

 
この本はほかにも、ネットに匿名で書かれたことばは呪いだとか、父母の価値観がいっしょなのは危ないとか、非常に同意できる上に少しハッとさせられるような発見があり、とてもおもしろかったです。内田樹、前から好きそうだとはおもってたけど、ちゃんと読んでこなかったんだよなあ……いやあ、好きになっちゃうよきっと……このくそ忙しいときに……でも読んじゃおうかな……。

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

 

こちらはまだ途中までですが、か、買おうかな……。なんかタイトルがこっぱずかしくて買うのがためらわれるんですが、中身は予想通り素晴らしいです。ふたりとも好き! 

以前、とある小説を読んで、やはりそれを読んだという知人に「あそこでなぜあの描写があるのか、そしてなぜこういう描写がないのか、そういうことがすごく気になる」というような話をしたところ、その相手に「そういうところまで読む必要はない、読者はそんなこと考えなくていいのだ」と云われて、がーん! となった記憶があります。で、この「小説の読み方……」ではそれについて、こういう言及がなされています。

高橋:僕がバーセルミを好きなのは、彼はものすごく正直な作家だからです。それはどういうことかというと、いわゆる「ふつう」の小説を書いていないわけです。ふつうの小説というのは、「ふつうの」というと妙な言い方なんですけれども、それは要するに、この社会のマジョリティのコード、約束事に則って書かれている小説なんですが、それを読んでいると、ある人たちにとっては、まず、なによりコードそのものが目に入ってくるわけですね。

柴田:たとえば芝居を見ていて、後ろに背景があって樹木があるんだけども、実はベニヤ板なわけですね。それを樹木ではなくてベニヤ板だと、つい認識してしまう。
高橋:そうです。「全部舞台の袖にいる演出家が演出したものじゃないか」という感じです。芝居の中身よりもそういうことが気になってしまう。この世界はコードでできているわけだから、そういう人間にとってそのことを抜きにして何かを書くというのは無理なんですね。

これこれ、こういうことですよ。「そうそう!!」って感じ。まあ厳密には、わたしが気になったのはコードではなくて作者の意図、理由、なんですけど、結局そういう舞台裏みたいなことが気になってしまって物語に没頭できないことがよくあります。高橋氏の小説は、まだ「さよならクリストファー・ロビン」しか読んでないんですが、こういうことを背負っているひとなのがよぉーくわかります。このひとも、あんまりのめり込みたくないんだよなあ……。

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

 

ちなみに柴田元幸さんの著書や翻訳書は、いっぱい読んでます。そして、ほとんどが好き。このひとの翻訳した作品ならきっと面白いに違いない、とおもわせてくれる素晴らしい作家です。ブコウスキーゴーリーは云うに及ばずですが、特に好きなのはレベッカ・ブラウンかな。

私たちがやったこと

私たちがやったこと

 

職場の図書館にイベントでいらっしゃいましたが、物腰の柔らかな紳士できゅんきゅんきました。ああーああいうひとと一度でいいから寝た(自主規制