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戯曲のこと、あと、わたしにはかんかくしかないから、かくしかないんだってこと

今日はたくさん書く、とおもいます、たぶん。

戯曲の授業を終え、演劇に関する課題も一応終えたので(再提出になったら終わらないけど)、遂にお芝居漬けの日々に終止符を打ちました。ここ半年というものずーっと演劇に関するものを読んで観て聴いて、演劇のことを考えつづけながら過ごしてきたという体だったので、なんだか心にぽっかり穴の開いたような感じです。ほんとたのしかった、お芝居! たぶん大学生にならなければこんなにお芝居のことを考えることはもう、人生でなかったとおもいます。もう、というのは、わたしがかつて演劇少女だった頃は、そりゃあもう毎日あほみたいに演劇のことしか考えていなかったから。あのとき以来、つまり、25年ぶりくらいなわけです。やばい、四半世紀前だぜ……。

戯曲は、ここでも何度か書きましたがお葬式の話で、先生には「まず、どうしてこんなに娯楽性の強い作品に仕上がったのかぜひ伺いたい」と訊かれました。もともとわたしは大衆的エンタメ作品よりも、誤解を恐れずに云えば、観念的で万人に受けず、感性に訴えかけてくるようなもの、さらに啓蒙的な意味合いを強く持つようなものが好きであって、それが先生にもどうやら見抜かれており、そんなきみがなぜ大衆娯楽的ミステリーを書いたの? と疑問だったようです。うーむさすがすぎます先生。

まさかそういうことを訊かれるともおもっていなかったので答えは用意してませんでしたが、なんといってもわたしは考えずにことばを紡ぐことに長けていますから、思いつくままに喋ってみたところによれば、「最初は全然こうじゃなかったんだけど、書いてたら、これで観客にたのしんでもらえるんだろうかと不安になった、書いていてもあんまり愉しくなかった、より面白くしようとしたら結果的に娯楽性の強いミステリー仕立てになっていた」みたいな感じでした。それを聞きながら自分で、ああこういう具合だと、まるでわたしの欲求が、純粋にひとに愉しんでほしいということみたいだ、そうじゃなくてわたしは、お金を払って観に来てくれたひとにわたしの観念を押し付けることがこわいだけなのだ、とおもいました。

けれど最終的には、自分としては、結末に納得のいかない感はあるものの、まあまあよく書けたんじゃないかとおもっています。先生にも、初めてでこれだけ書ければたいしたものだよと褒めてもらえたし、よく勉強されたなーというのがたいへん滲み出ていますと褒められました。えっへん。

けれどこの作品がまあまあうまくいったのだとしたら、それはやっぱり、わたしが自分のことばに関する感覚を信じているからだとおもいます。

大阪でひとと話していてすごくおもったのだけど、わたしには感覚しかないんだなとおもう(あれれ、いきなり敬語じゃなくなるけど他意はないです)(脳内の自動筆記だからそういうことも起きる的な?)(レポートじゃないんだからそのへんは適当にやらせてくださいごめん許して)(っていうようなことを前はさほど気にしてなかったんだけど気にするようになったのはやっぱりレポート慣れしていてブログ離れが進んでいるせいだとおもうんだ)(というかですます調のあと突然である調になるのって基本的には当然いやなんだけど、ブログのような場所であれば、読んだときのリズムが大丈夫ならまあいいやとおもっていた、という話です)。

わたしは脳足りんで、物事をぜんぜん覚えておけなくて、本を読んでもどんどん忘れるし、同じ映画や小説を何度でも新鮮に愉しめてお得なんだけど、それは前頭葉だか海馬だかなんだかが物理的にダメで、つまり知識をストックしていくことが困難ということで、それでも人様に頭が良いだの賢いだのと云っていただけることが多いのはわたしの感覚が圧倒的に鋭敏であるからだとおもう。

感覚しかないわたしはわたしの感覚だけを信じていて、たぶんこの世で信じられるのはこれだけなのだ。感覚は知識のようにわたしを惑わせないし、他人のように裏切ることも、社会のように変わることもない(ちなみにわたしが他人に裏切られたとおもうのは相手の行為に因ってではなく自分の期待に因ってであって、金を騙し取られたとか浮気されてたみたいな行為は別に裏切りだなんてわたしはおもわない、されたことないけど、ただわたしにとっての他人の裏切りはいつだって、そんな想像力のないことする人だったんだ、とか、こんなつまらない人間だったんだ、とか、そんな理由でわたしが勝手にがっかりすることで、わたしのことを裏切ったことのない他人はいままででおそらく娘と息子だけなのであった)。

でもこうやって書いてても「感覚? 感覚って具体的になんやねん」とおもったひとは、たぶんあまり感覚の鋭くないひとだよね♡

感覚って一口にいってもいろいろあるけど例えば「行間を読む」「空気を読む」「一を聞いて十を知る」みたいなことのできないひとは感覚が鈍い、これは間違いないとおもうの。ただ、行間や空気を読めないひとが即ち「無神経」かというと、それはまた別のお話で、無神経なことって、あえてする、あえて云う、無神経だなあわたしは、とおもいながらあえて選択する、ということができる(そういうことをするのは、とてもやさしいひとか、わたしを筆頭としたこころないひとだ)。だから無神経なことをするひとが鈍感なわけではないというのは自明の理だなとわたしは考えているけれど、鈍感なひとに無神経なひとが多いのは当たり前でもある。ただ感覚の鋭いひとが無神経なことを云ったりやったりしていたら、それは故意にやっているとおもって間違いないですな。それで「えーわたしそんなつもりじゃなかったのにー」って云ってたら、それは嘘か、鋭敏さを装った鈍感なひとだったかのどちらかですな。

わたしはいままでいろんな男の子と付き合ってきたけど最初の夫も二番目の夫も、そして二人目の子の父親もみーんな鈍感なひとで、ってことはたぶんわたしは鈍感な男が好きってことだ。鈍感な男っていらいらさせられるけど、わたしの敏感さについても鈍感でいてくれるからきっとありがたいんだよね。お互い敏感だったらもうどうしようもなくなるんじゃないだろうか。わたしの好みはベケットピカソみたいな繊細で感覚の鋭い男なんだけど、きっとそれは単なる理想であって、生活ってやつは理想じゃない、おとなになったわたしはそれを知っている。でもやっぱり鈍感なひとと一緒にいると苦しくなるから、わたしにはもう何年もパートナーがいないんだとおもう。かわいそうだなあ!

敏感な若い男の子と話をしていて気づくのはそれが幼かった自分そっくりであることだし、敏感な三十代四十代あたりの青年と話をしていて思い知らされるのは彼らのあまりの生きていきづらさ、くるしさ、それらをどうすることもできない自分の歯がゆさばかりだし、敏感な五十代以上のおじさまにはもう当たり前のようにパートナーがいて、それはもう当たり前のことなのでほんとうに当たり前だとおもう。当たり前だ。だからわたしは彼らに夢中になることができない。

鈍感なひとのすごいところは、自分がそんなに鈍感だって気づいてないところだ。たとえばTwitterなんかでちょっと毒づいたりすると「あれって俺のこと?」みたいなことを本人に訊いちゃえるような男子は、もしかしたら「気づいちゃった俺、そういうのに敏感だから」くらいのことをおもってるかもしれないんだけど、そこまで含めての鈍感さであって、まあこの例でいうとTwitterに毒づくという行為がもうかなり鈍感なので、そこはもう鈍感カップルでいいとおもうんだけど、そういう鈍感さがSNSには横行していて、見ているとほんとうに具合がわるくなるからSNSは見ないに限る(ここまで一息に)。それでもたまに見たり書いたりしてしまうのは、やっぱり誰かと対話をしたいからなのかなあ。会話ではない、対話を。

そんなわけでわたしには自分の感覚だけが頼りで、いわばこれは命綱なのだ。この研ぎ澄まされた感覚がなかったらわたしはバカみたいなバカでみにくいおばさんでしかない。わたしはこの感覚のせいで、神経質で完璧主義で臆病で尊大だけれど、でもこれだけの感覚があるのだからそれくらいの代償は仕方ないというものだろう。という話からゲス乙女のひとの話を書こうとおもったんだけど、あまりにも文字数が増えてしまったので次回にまわそう。。。