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汲む技術

Facebookで「伝わらない」についてともだちが書いていて、考えたことを書きます。いや、考えたことがもう既に頭の中にあるわけではなくて、いま考えながら書く、というか、書くことで整理していく感じなんだけどね。

一時期「伝え方が〇割」みたいな本がベストセラーになったとかで、車内広告などでよく見ました。読んでないし、何割だったか忘れたけど、たぶん……八割くらい?(てきとう)

わたしも、なにせ「なにを書いてるかより、どう書いてるか、だ!」なんて云っちゃうくらい、「どう伝えるか」に重きを置いている人間ですから、伝え方がものすごく大事だとはおもっています。しかし、伝える技術をどんなに高度にしようと、いや、それを高度にしていけばいくほど、減っていくものがあります。質量保存の法則ってやつですよね。いや、なんだか知らないけど、その法則。合ってなかったらスルーしてください。

伝え方を向上させればさせるほど失われるもの、それは「汲む技術」です。「一を聞いて十を知る」という言葉がありますが、これはすごく大事だとおもいます。これがまさに、汲むということでしょう。ところが、伝える技術をあげることによって、最初から十を伝えようとしちゃうわけですね。これでは汲む技術が衰えるのも無理はありません。一しか云わない、あとは汲んでくれ、という情緒が失われるわけです。おいおい、ここはアメリカか?(偏見)

さらに、昔、情報の入手方法がテレビや新聞だけだった頃、そこには字数や時間という限りがありました。人々は、限られた枠におさめられた情報を入手し、想像力を膨らませたり、見えないものを恐れたりしました。しかし、インターネット上には時間も字数も関係ありません。なんでも書けます。どんどん読めます。入手しほうだいです。だから伝えるほうは、「いかに簡潔に、手際よく、相手に負担を強いることなく、相手の求めている、必要なことを伝えるか」という技術を磨く必要がありません。Twitterの文字数制限だって、連続でたくさん投稿しちゃえばいいだけですしね。そんで、拡声器を持ったおばさんみたいに、わーわーがなり立てるわけです。伝えよう伝えようとしてくるわけです。汲む技術を失った人たちに情報を植え付けるには、がなり立てるしかないですからね。うるさいですよね。そうまでして伝えたいことってなに? そんなものあるの、ほんとうに?

実はこの汲めない最たるひとが、うちの実父です。どれだけ遠回しに、柔らかいことばを駆使しても、Facebookの友達申請を無視し続けても、まったく汲んでもらえませんでした。仕方なく「二度と連絡をしないでくれ」と、汲む必要のない直球のことばを投げつけました。そして、情緒のないことばを放ったことに、いまだにへこたれています。汲んでくれ。

伝わらない。これはもう、しょうがない。他人だし。分かり合えないし、他人となんて。親子ですら分かり合えないんだし。伝わらないひとに不満を抱くのはやめよう。こちらの伝え方の問題かもしれないし、ほんとは伝わってるけど伝わらないふりをしているだけかもしれないし。でも、汲めない、これはだめだ。汲もう。汲んだ上で判断しようよ、拒絶とか、承認とか、イエスとかノーとか。

汲めないひとが天敵だ。わたしは汲めるひとでありたい。もう、ひたすらに汲みたい。なんなら「俺さー」くらいで、「あーはいはい、それね、うん、わかってる」くらいのことを云いたい。「明日さー」くらいで、「オッケーオッケー、18時に、いつもの店ね」ってな感じで汲みたい。なんなら相手に主語しか話させたくない。そんで、汲む技術を磨いて、最終的には「汲み方が約八割強」って本を書いてベストセラーにしたい。その際は、ぜひ。いや、この先は汲んでください。